コラム
2011.05.31(火) コラム
サッカーから学ぶ組織開発・人材開発 6:日本のスタイルの追求
【サッカーから学ぶ組織開発・人材開発(松村卓朗)】
第6回:日本のスタイルの追求~見直すと見出す
私が敬愛する映画監督にジム・ジャームッシュという人がいるが、彼の作品で「ゴーストドッグ」という映画がある。NYの殺し屋の話なのだが、その殺し屋は、決して電話やFAXなどでは依頼を受けないし、仕事の連絡をしない。鳩をたくさん飼っていて、今なお連絡手段には伝書鳩を飛ばすのだ。毎日、眠りにつくときには「葉隠」を読む。殺し屋の世界に身を置きながら、武士道の精神をとても大切にしているのだ。とにかく、この殺し屋はスタイルを持っている。スタイルがあるというのは、とてもかっこいい。
サッカーの世界でも、各国のスタイルということがよく話題になる。例えば、イタリアは徹底的に守る“カテナチオ(ゴールに鍵をかける、という意味)”のサッカー。1対0のスコアで勝つのが最高とされる。スペインは攻撃による“スペクタクル”なサッカー。5対4のような点の取り合いで勝つようなサッカーが賞賛されると言われる。
サッカー選手はそもそもみんなひとりずつ違う。当然のことながら、個体差が国の違い以上に大きいことも少なくない。しかし、なぜかその国のサッカーの“らしさ”が存在する。代表チームの様々な経験の蓄積を通じて、得意なことはさらに磨きをかけながら、不得意なことを克服しながら、集合知として蓄積され、DNAのように脈々と受け継がれていく。また、サッカーをする者達だけで形成されるものではなく、その国の観戦者達の眼を養い、肥えさせていくスパイラルと相俟って、長い歴史と文化の上に築かれていく。それがスタイルというものなんだろう。
日本のスタイルとは何か。まだまだ自分たち自身でも認識できていないと思う。だから、当然世界にも分かりやすい形で伝わっていない。サッカーが発展途上にあるということは、スタイルの模索と構築の途上でもあるということだ。
日本サッカーのスタイルの模索や構築はどのように行っていくのか。まずは徹底的に自分達を「見直す」必要がある。
オシム元日本代表監督は、自分達のよさを客観的に見直しよく知ることが日本代表チームの“日本化”の第一歩だと言った。外国人だからこそ、
日本のよさが客観的に分かると断言していた。しかし、日本は強豪国や名門クラブの模倣に努めているようにしか見えない。 それに倣い、いかにして追いつくかに、日々努力している。日本人は世界最高のものを模倣している。まず、それを止める必要がある。模倣はどこまで行っても模倣にすぎず、それは日本人が本来持っているものを引き出すことを邪魔し、あるいは失わせることになる。客観的に自分の持っている特質を見極め、それを試していかなければならないと語っていた。
岡田前日本代表監督も、自分達の良さや持っているものを十分に見直さないで、外国のやり方なら何でもすぐに取り入れようとする日本人のコンプレックスを嘆いていた。欧州や南米のコーチがやってきたときには、総出で出て行き皆んなで一生懸命メモをとる。実は大したことがないコーチで向こうでは二流であっても、ありがたく聞いている姿に、無性に腹が立ったとも。オシム監督が倒れた際日本代表監督を引き受けた理由の一つは、日本人監督にもできるところを見せて、このような指導者達のメンタリティを変えたいという気持ちがあったと語っている。
それから、日本の独自性を活かし切れる、自分達が生きていく道を「見出す」作業が必要だ。
日本サッカーが生きていく道は、最近世界のトップリーグで目覚しく活躍するようになったフットボーラー達が、大きなヒントを与えてくれているように思う。先日「日本男児」という本が出た。5年前は大学のサッカー部でレギュラーになれず、応援団席で太鼓を叩いていたのが、今は世界最高峰のインテルというイタリアのチームでレギュラーの座を掴んだ、長友選手のシンデレラストーリーだ。この本を読んで、長友選手が急激な進化を遂げたのは、まさに日本人ならではという気がした。どこまでも“献身的”で、それでいて“確固たる自分を確立している”のだ。(詳細は、別の稿で論じたい。)
最近欧米のアカデミズムの世界で仏教が関心を集め、研究機関がいくつも設けられているという話を聞いた。日本人からすると、仏教に“やっと行き着いた”という言葉も聞かれた。例えば西洋を起源とする心理学では、内省、即ち、自分から始まっている。仏教では自分からなんか始まっていない。そもそも無なんだから。献身的の始まりが違うのだ。
一方で確かに、確固たる自分が確立されていないことが日本の弱さとして語られることも少なくない。先日も、南アフリカのラグビーのコーチがこんなことを言っていた。「日本の選手はコーチの言うことを信じてくれるので指導しやすいし、コーチングの効率がとてもいい。南アフリカでは、自分の中にあるものしか信じないので、コーチングには時間がかかる。だが一旦自分の中に確立されると、それは、とても揺るぎ無いものになる。」と。
だから、私は、長友選手のあり方、即ち、どこまでも“献身的”で、それでいて“確固たる自分を確立している”ということは、他の国の選手では日本のサッカー選手ほどには生み出せない独自価値であり、日本サッカーが生きていく道の基本概念を示しているように思う。
スタイルというのは、企業の活動で言えば、「ブランド」という言葉が近しい。ちょっと違うように聞こえるかもしれないが、
・一朝一夕に構築されるものではなく、長い時間をかけて熟成されてできあがっていく
・企業の内部の活動だけではなく、周囲の取り巻く者たちの認識と相俟ってさらに強化されていく
・丁寧なサービスとか、きめ細かい営業活動といった、機能で表現しきれる類のもの(サッカーで言えば足が速いとか)ではなく、それらを超えたイメージとしか言いようのないものを含む(機能だけで言い表せるものはブランドと言うべきでない)
といった性質のものなので、私はスタイルと言ってよいと考えている。実際、ブランドを“らしさ”という言葉で言い換える企業も少なくない。
組織開発のご支援をする中で、ブランドの再構築や浸透に携わることは少なくない。その企業の“らしさ”を確立するために様々な活動をするが、基本的に核となる活動は、「見直す」と「見出す」だ。自分達の真の価値や、あるいは弱みと思っていることも実は強み足りえるかもしれないと、徹底的に「見直す」。取り巻く環境をつぶさに観察し、独自の個性を活かせる領域を探し、自分達が生きていく道を「見出す」。
最近ある企業で、“誇りや自信を取り戻す”ことを目的として、ブランドの確立活動を始めた。日本のスタイルを追求すること、即ち「見直す」と「見出す」活動と作業は、サッカー界だけではなく、震災後の今、誇りや自信を取り戻すために、立ち上がって前を向いて歩んでいこうとする日本社会にこそ、実は、とても必要な活動だと考えている。
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